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第4話 灰冠の狼王

last update 公開日: 2026-10-01 21:01:14

北門を出てから半刻ほど、私は何度も背後を振り返った。二人の騎手が同じ道を来ていたが、こちらへ声をかけることも、急いで距離を詰めることもない。祝祭から帰る客かもしれない。そう思って前を向いても、馬の蹄が石を踏む音が聞こえるたび、外套の下に抱えた帳簿を確かめてしまった。

 街道の脇には、国境の村まで続く荷馬車用の道がある。馬車なら夕方には最初の宿に着く距離だが、歩きでは無理だろう。私は昼前に小さな茶屋で水を足し、パンを一つ買った。財布の残りを考えると宿に泊まるより道中の物置を借りたほうがいい。そんな算段をしている自分が、少しだけ可笑しかった。昨日まで、旅に出る予定などなかったのに。

 茶屋の主人はパンを包みながら、「北へ行くなら、古い橋は使わないほうがいい」と教えてくれた。春先の増水で板が何枚か外れ、馬を渡すには危ないらしい。私は礼を言い、橋より手前で川沿いの道へ下りることにした。

 茶屋を出たところで、後ろの騎手たちも馬を止めた。二人のうち一人が主人に何か尋ね、主人は私の歩いていく方角を指した。

 偶然だと思うには、さすがに苦しい。

 私は走らなかった。街道にはまだ人目があり、騎手が本当に私を追っているなら、足の速さで勝負しても負ける。橋の手前で川沿いの道へ下り、荷車の轍が深く刻まれた斜面を進んだ。道は柳の茂みに隠れるように曲がっている。騎手は橋へ向かうかもしれないし、私と同じ道を選ぶかもしれない。

 靴の底で乾いた枝を踏んだとき、近くの鳥がいっせいに飛び立った。

「そのまま進むな」

 男の声がした。低く、命令に慣れた口調だったが、大声ではない。私は足を止め、声のした川岸へ顔を向ける。

 崩れた石垣の陰に、黒い外套の男が座っていた。片膝を立て、もう片方の腕を胸に当てている。指の隙間から血がにじみ、石垣にも小さな赤い跡が残っていた。年は三十を少し過ぎたくらいだろうか。長い黒髪を首の後ろで束ね、汚れた上着の下には鎖を編んだ防具が見える。

 男は私の顔より先に、足元を見た。

「二歩先に縄がある。踏めば音が鳴る」

 目を凝らすと、枯れ枝の間に細い糸が張られていた。向こう側には小さな鈴まで結びつけてある。私は片足を引き、男を見直した。

「あなたが仕掛けたの?」

「追ってきた者だろう。俺がここへ下りたときには、まだなかった」

 言い終えるまでに、男の呼吸が一度乱れた。血のついた腕を押さえる力は弱まっていないが、座っているのは休むためだけではなさそうだ。

 私は街道のほうへ耳を向けた。馬の足音は途切れている。聞こえるのは川の水と、時折風に擦れる柳の葉だけだ。

「怪我を見てもいい?」

「まず、お前が何者か聞きたい」

「それは私も聞きたいわ。ここで隠れている人を信用する理由がないもの」

 男の口元が、かすかに動いた。笑ったのか、痛みをこらえたのか、近づかなければ分からない。彼は押さえていた手を少し外し、上腕の傷を見せた。刃物で切られたのではなく、短い矢がかすめたような傷だった。袖が裂け、布に血が染み込んでいる。

「矢は刺さっていない。腕が上がりにくいだけだ」

「腕が上がらないなら、傷を洗うにも困るでしょう。水はあるし、私には布がある。それで十分?」

「手当てを頼む相手を選んでいる場合ではないらしいな」

「私だって同じよ」

 私は男の足元にある石へ目を向けた。片足を引きずった跡が続いているが、そちらに血は見えない。怪我をしているのは腕だけだろう。それでも、彼を助ける間に騎手が来れば逃げにくくなる。

 男が私の視線を追い、「嫌なら行け」と言った。

 そう言われて初めて、自分がまだ迷っていたことに気づいた。私は鞄を下ろし、飲み水の小瓶を取り出す。

「嫌とは言っていない。袖を少し裂くわね」

「好きにしてくれ」

「あとで服の弁償を求めないでよ」

 返事の代わりに、男は無事な手で袖口を押さえた。私は縫い目に沿って布を開き、傷の周りの汚れを水で流す。思っていたより浅いが、血は止まりきっていない。旅用に入れていた清潔な布を傷に当て、ずれないよう細長く裂いた別の布で巻いた。

 男は途中で一度も痛いと言わなかった。ただ、私が布を締めたとき、川岸の小石をつかむ指に力が入る。平気なふりがうまい人だ、と思った。

「きつすぎたら言って。遠慮して倒れられると困る」

「少し緩めてくれ」

 私は結び目を作る前に力を抜いた。言ってくれたことが意外で、男の顔を見上げる。彼は私を試すような目つきではなく、傷が気になる人間の顔をしていた。

 そのとき、斜面の上で馬が鼻を鳴らした。

 私は鞄へ手を伸ばしたが、男が短く首を振った。石垣の陰からでは相手の姿は見えない。足音は二人分、馬は少し離れたところに繋いだようだ。

「女がこっちへ下りたはずだ。橋にはいなかった」

 聞き覚えのない声だった。もう一人が、柳の茂みを踏み分ける。

「上から見れば分かると言っただろう。川を渡られたら探しようがないぞ」

 男は私に手を出さず、石垣の反対側を顎で示した。そこは土がえぐれ、二人で身を寄せれば斜面から見えにくい。私は鞄を抱えて移動した。彼も無事な腕を使って体をずらす。外套が触れたが、お互い何も言わなかった。

 足音が近づく。騎手の一人が仕掛けられた糸を見つけたのか、「鈴がある」と告げた。私は男の横顔を見た。彼も糸の持ち主を知らないと言ったが、では誰が、誰のために張ったのだろう。

「声をかけて、事情を聞けば済む話じゃないの」

 私は息だけでそう言った。男は少し間を置いてから、同じ小ささの声で返す。

「そういうつもりなら、道を塞ぐ縄は張らない」

 反論できなかった。今朝、長老は私に調査の結果を知らせると約束した。私を呼び戻すなら、門番を通じて伝える方法もあったはずだ。けれど、斜面の上にいる男たちがガレスの使いなのか、それすら確かめられていない。

 足音が石垣の手前で止まった。水に投げ込まれた小石が、二度跳ねて沈む。

「ここにはいない。下流を見てくる」

「馬を回す。日が落ちる前に見つけたい」

 二人は引き返した。蹄の音が遠くなるまで、私たちは動かなかった。川の向こうでは、柳の枝に引っかかった枯葉が水を含んで沈みかけている。そんなものをじっと見ていたせいで、男が声をかけたときには肩が跳ねた。

「ここで別れれば、まだ宿へ行ける」

「あなたはどうするの」

「迎えが来る」

「来ると分かっているならいいけど。さっきの二人が戻るかもしれないわ」

「俺を狙った者とは別のようだ。お前にも、あの二人を待つ理由はなさそうだな」

 私は黙ったまま、鞄を持ち直した。彼は無理に聞かない。安心した一方で、その落ち着きはどこから来るのかと気になった。

「あなたを狙った人がほかにいるの?」

「いた。話すには、お互い名乗るところから始めるべきだろう」

「今は、名前を知ったあとで困ることが増えそう」

 私が答えると、男は傷を巻いた布を確かめた。

「では、迎えが来るまで名乗らずにいよう。それなら俺も余計なことを聞かずに済む」

 申し出はありがたかった。ただ、この場を離れるには道の様子が分からない。私は石垣の端から街道を見ようとしたが、男が立ち上がり、先に川沿いを指した。

「少し下ると、古い橋の下に出る。あそこなら街道を見渡せる。馬の通れない浅瀬もある」

「歩ける?」

「速くはないが」

 私は自分の鞄を背負い、彼の傷がない側に回った。支えようとすると、男は「石につまずく前なら頼む」と言い、自分で歩き出す。私は無理に手を貸さず、足場の悪いところだけ先に教えた。

 橋の下へ着くころには、陽が傾いていた。橋板の隙間から橙色の光が落ち、川面がゆっくり色を変える。上の街道から馬の音が聞こえたが、今度は一頭や二頭ではない。複数の騎手が、橋の手前でいっせいに速度を落とした。

 男は音を聞き、ようやく肩の力を抜いた。

「迎えだ」

 上から誰かが彼を呼んだ。男は応じ、橋の脇の坂を上がっていく。私はその後ろを追ったが、上がりきる前に兵たちが馬から降り、道を空けた。

「陛下」

 先頭の兵が膝をついた。ほかの者もそれに続く。

 私は坂の途中で立ち止まり、男の背中を見上げた。彼は振り向き、私が取り残されているのに気づくと、兵たちに立つよう命じた。

「この人に手当てをしてもらった。追っていた者もいる。まず安全な場所まで案内してくれ」

「承知しました、エイドリアン陛下」

 灰冠の狼王。その名は、国境に暮らす者なら知っている。群れ同士の争いを裁き、冬には自ら物資の届かない村を回る王だと聞いていた。知らなかったのは、旅人のような姿で川岸に座っていれば、私が彼に服の弁償をしないでと文句を言えることだった。

 王は私に近づいた。兵たちの視線が集まり、今さら礼をするべきか迷っていると、彼が先に言った。

「名を聞いてもいいか」

「リヴィア・フェンです」

「リヴィア。腕を手当てしてくれてありがとう。ここから先は、俺の兵にも事情を聞いてもらうことになる。それが嫌なら、宿へ送るだけにする」

 断れる形で言われたことに驚いた。私は北門で見た騎手たちのことを思い出し、すぐには返事をしなかった。

「まず、追っていた二人が誰かを調べたいです。それから決めてもいいですか」

「もちろん」

 王が兵に命じる間、私は鞄から水を取り出そうとして、古い帳簿を落としかけた。表紙をつかんだものの、挟んであった古い納入票が足元に滑り出る。王は拾おうとして傷めた腕を動かしかけ、顔をしかめた。

「私が取ります。腕を使わないで」

 票を拾って泥を払うと、王の目がそこに留まった。彼は私の手から奪うことなく、文字を読める距離まで近づく。

「その納入先は、灰冠城の北倉か」

「ええ。昨冬、私たちの群れから運んだ物資の控えです。何か?」

 王は納入票の日付をもう一度見た。

「その週、北倉には薬も保存食も届いていない。雪で道が塞がれたと報告を受け、俺も現地へ確認に行った」

 私は票の下に押された受領印を見た。荷が届いた証として帳簿に残してきた印だ。雪で道が塞がれていたなら、この印は誰が、どこで押したのだろう。

 王は私の顔を見て、答えを急がせなかった。私は納入票を帳簿に挟み直す代わりに、彼と兵たちの見えるところで開いたまま持った。

「調べてください。私も、この荷がどこへ行ったのか知りたいんです」

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